「自分はいつか死ぬ」ということについて考えたことはあるでしょうか。
私は、子供の頃考えることがありました。
「死ぬ」ということは、自分という存在が消えてしまうことで
自分が自分であると認識できなくなる。
そんなことを考えると恐ろしくなって深く考えることを止めてました。
それ以降、「死ぬこと」について考えることはなくなりましたが
最近ふと、こう思うことがありました。
「死の間際になった時に、今の生き方に後悔していないだろうか」
なんで今のタイミングなんだろう?
と考えたところ、もう後半分とは行かないまでも
人生の残り時間を意識するような年齢になってきたというのが
関係しているのだろうと思います。
それと、今の生き方に不満があるということなんでしょう。
じゃあ後悔しない生き方って何なんだろう
と考えても、パッと思いつかない。
しばらくは、ああでもない、こうでもないと
考えを巡らせる日が続きました。
そんなある日、amazonのサイトを何となく眺めていた際
こんな本を見つけました。
これは巡り合わせか?
死ぬことについて考えを巡らせていた今の私に最適な本なんじゃなかろうか。
直感的にこれは今読んだ方がいいと感じた私は
すぐにkindle版をダウンロードしたのでした。
死の宣告は本来の自分の生き方を見直すチャンス
本書はサソリに刺された毒で余命がわずかしかない王子が
哲学者の老人に出会い、ハイデガーの哲学を学んでいくという
物語形式で語られる本です。
ハイデガーは「存在とはなにか」ということをテーマとして研究していました。
その中に「死とはなにか」というテーマも含まれています。
本書ではその、「死とはなにか」というテーマがメインとして
語られています。
本書を読んでいて、まず印象に残ったのが
「死の宣告は本来の自分の生き方を見直すチャンスである」
と言う概念でした。
そして、自分本来の生き方が出来るようになるとも言っています。
私がそうなったとして想像してみましたが
でた答えは
「そうはならんやろ」
でした。
まず、私だったら絶望すると思います。
そして「もうすぐ死ぬんだったら何やっても無駄だ」と
終末期の患者さんで「もっとこういう生き方をすればよかった」
と、後悔する方がいると聞いています。
死の間際に本来のやりたいことが分かったとしても
正直遅いですよね。
だからと言って、寿命はまだ大分先であろう今
自分本来の生き方が分かるのかと言うと
すぐには出てこない。
じゃあどうすれば、死ぬ間際でなくても自分本来の生き方が出来るのか
その答えが本書に記述されていました
―
と、言いたいところですが
明確な答えは、本書を読んでも得られませんでした。
哲学と言うものは、そういうものらしいです。
答えを与えてもらうのではなく、自らが考えそしてそれを継続する。
そういうものだそうです。
しかし、ヒントのようなものは得られたかなと思います。
それも、とても大切なヒントが
そこらへんを解説していこうと思います。
自分以外の人間は全て道具
会社で働くサラリーマンは会社の歯車で
仮に病気やけがで働けなくなっても「変わりはいくらでもいる」
と言うのは、聞いたことがあると思います。
改めて思うと悲しい考え方ですが
実際にサラリーマンとして働いてみると、そう感じることはあると思います。
本書ではこのような状況を
「交換可能な道具的存在だと思い込む」と述べています。
ではなぜこのような思い込みが起こるのかと言うと
「他人からの評価目線で生きている」からであります。
「他人からの評価」って結局のところ
こいつは「使える」か「使えないか」ってことなわけです。
つまりは、道具扱いされているってことですね。
それをみんな意識はせずとも理解はしているので
「自分は使える人間だ」と思われたくて、他人の評価が気になっちゃうんですよね。
本書では、このように他人からの評価を気にして生きるのは
人間本来の生き方ではないと述べています。
まあ、言われなくても分かってるよって話ですよね。
それが出来ていれば苦労はしてないんだよってね。
そんな反論を待ってました!と言わんばかりに
本書では、「そうだとしても人間は誰でも自分本来の生き方が出来る」
と述べています。
そのポイントこそが「死」―自分が死ぬということであると。
死を覚悟する
「死」について真剣に考えたことがあるという人はそういないと思います。
なぜなのかと言うと、それは怖いから。
「死」について考えると、人生の終わりを実感してしまう。
人生に終わりがあるなんて実感してしまったら、そりゃ怖い、とんでもなく怖い。
だから「死」について深く考えることもなく
寧ろ「永遠に人生が続いていく」と思い込んでいるところがあるんじゃないでしょうか。
だから特にやりたいことをやるでもなく、ダラダラと時間を潰すような生き方
というのを選択してしまうのではないかと
永遠に続くんだから、別にいつでもいいわけです。
「自分のやりたいことは後でもできる」と
だからこそ、「死の先駆的覚悟を持て」と本書では述べられています。
これは、「いつか死ぬことを覚悟しよう」みたいな生ぬるい考えではなく
「今この瞬間にも死ぬ存在であることを覚悟せよ」とのこと
病気で余命1か月を宣告されたとしても、その前に死ぬかもしれないし
余命を過ぎても生きているかもしれない
死は誰にも予測できないものである。
逆にいえば今この瞬間にも死ぬ可能性があるということである。
だからこそ今この瞬間、自分本来の生き方をすることが重要な意味を持ちます。
死が優しい隣人になるまで
でも「死ぬことを覚悟して生きろ」と言われても
具体的にどうすればいいのか本書にも記述はありませんでした。
しかも、本書では結局のところ「自分の人生とは何だったのか」という問いに
答えを出すのは不可能とまで書かれています。
それじゃ結局「死」について考えること自体が無駄じゃないかと
思うかもしれません。
しかし、私はこうやって考えを巡らせることが
大切なのではないかと思います。
「人生が終わる瞬間は全ての人に平等に訪れる」
これを明確に意識してない人、多いと思うんですよね。
私もそうでした。
だから、大半の人はある意味「人生は無限である」と思い込んで
やりたいことも後でやれるなんて思っちゃうわけですね。
定年後に〇〇をやるから今は我慢しようみたいな。
そして、「死ぬ」と言うことは単純に恐ろしい。
死後の世界があるとか、輪廻転生という概念があったりしますが
本当にあるのか、実際に死んでみなければ分からない一発勝負なわけです。
「だからやりたいことだけやって生きよう!」と言いたいところですが
いきなり言われても難しいと思います。
私も今現在やりたいことだけやって生きていません。
むしろやりたくないことをやって生きていると言えます。
でも、こうも思うんです。
今の生き方は自分自身が選択しているのではないか、と
今の仕事を選択したのも、住んでいる場所を選択したのも
全部自分です。誰かに強要されたわけではありません。
「いや、でも生活のためにしょうがなく・・・」
みたいな理由はあるかと思います。
でも、それも辞めようと思えば辞められますよね?
極論ですが、辞めたら死ぬというようなことではないはずです。
であれば、今現在、私もあなたも
自分自身が選択した人生を生きているってことになります。
「そんなことあるか!」と思うでしょう?
ええ、私もそう思います。これが私の選択した生き方だと思いたくありません。
だからこそ「自分の選択は本当にこれでよかったんだろうか」
と立ち止まる必要があるんじゃないでしょうか。
その立ち止まりポイントが「死ぬ」ことを考えることなんだと思います。
「死の間際になった時に、今の生き方に後悔していないだろうか」
そう考えた時に
「このままでいい、突き進もう」と思えるならばそれでいいし
「いや、本当にそうなのか?」と思うならば
そこが人生の立ち止まりポイントになるんじゃないでしょうか。
「自分の人生に疑問を持った時には、死について考える」
そして、そのたびに人生の行先を確認したり、修正したりし続ける
ことが生きることなのではないか。
そうすれば、死は恐ろしいものではなく
優しい隣人になっているんじゃないでしょうか。
本書はそんなことを考えさせられる一冊でした。
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